2020年01月14日

第二章 不穏な陰 一やっちまったなあ綱吉…

第二章 不穏な陰



『小さな角』のつぶやき…


何だか、後の世にも繰り返し起きるような悪さがアチコチで起き始めたようだな…。
とりわけ、子供のかどわかしは目にあまる…。

親の悲嘆はもちろんだが、子供の夢多きこれからの人生が終わってしまうではないか!
異国の悪者も絡んでいるようだが…、これも政がデタラメなのが原因だということが分からんとは…、政に与(あずか)る者の頭をかち割って見てみたいもんだ!

このままでは、人々の優しさや労(いたわ)りの心を持つ余裕がなくなるのではないか…、心配だ。

あ奴の声はポッポッーと聞こえるが…、あ奴は『真正アホ』だ!



一 やっちまったなあ綱吉…


元禄八年二月初旬のことであった。

太助が、日本橋たもとの高札場に張りだされた政令『生類憐みの令』の追加事項をちびた筆で書き写している頃、中の蔵の外壁に新たな部屋の扉が浮き出てきたのであった。そして、その部屋の中から、
「ブッ…!ブブッ…!」
という音がして第三の部屋の扉が開き、みすぼらしい爺ぃが気絶しそうな足どりで、フラフラと倒れるように出てきた。猛烈なにおいと一緒に…。

庭の木々の枝で遊んでいた雀たちが、固まったまま四、五羽落下してきた…。

「あんた誰?そこで何してんの?それにしてもきたない爺さんだの…。それに猛烈にくさい!」

蔵に商売用の紙をとりにきた善八は、目を丸くしてたずねた。

「わしは大和葛城(かつらぎ)山で修行した、千年のものあいだ活躍する偉あい行者である役小角(えんのおずぬ)という者じゃ。何としばらくぶりにこの世に戻ったのじゃ。恐れいったか…」

「自分をほめる奴にろくな奴はいないもんだが…。あっ、ひとんちの蔵の壁に、かってに扉の落書きをしやがってこのやろう、これでもくらえ!」

まったく恐れいらない善八は、行者に拳(パンチ)をみまうふりをして、こらしめようとした。
もちろん相手がヨレヨレの爺さんなので、一刀流の達人である善八は、格好(ポーズ)をとっただけなのだが、それに気づかないほど水準(レベル)のひくい行者は、軽い足運び(フットワーク)で、

「フフフッ、軽いもんじゃ。なにせ、あの天上界の元中量級拳法王者(ボクシングライト級チャンピオン)堂上名魂岩松(リングネームガッツいわまつ)という異名を持つ弥勒菩薩と、千年にわたり鎬(しのぎ)を削るわしにはかなうまい…」
と嘯(うそぶ)いた。

石松 (002).png



あまりにのろいシュッシュッに、善八はアホらしくてため息…。

「とまれ、このままでは話が進まぬゆえ…ま、わしの部屋で談合しよう」
と、行者は勝ちほこったふうで、蔵の壁のへたくそな落書と思われた第三の部屋の扉をあけ、しばらく空気を入れ換えて蔵の中に入っていった。

背中合わせの二つの蔵の入口は両端に別々にもうけられていたが、奥の壁はからくり扉になっており、行き来ができるように工夫されている。

善八は、仕世堂(しせいどう)側の入り口から蔵の中に入り、からくり扉をくぐると貝穀屋(かいこくや)の蔵に出られることを確かめた。
にもかかわらず、外に出て蔵の壁に描かれた第三の扉の絵に行者が手をかけると扉が開き、まったく別の部屋に入ることができるのであった…。

蔵に入ると、
「このくらいのことは異空間隠遁(ひきこもり)の術を使えば朝飯前なのじゃ。わしは偉あい行者だからして!」
そして、りふじん堂一党への忠告と助言(アドバイス)を申し出た。

「表通りの貝穀屋と裏の仕世堂の面々が実は同志であり、チミたちが世のなかの理不尽なことを仕かける者たちをこらしめておることも知っておる。
チミたち、何か困っておることはないかの?この偉あい行者が相当に思慮ぶかい知恵と、超人的な術を貸して進(しん)ぜるが。いまの世で人びとが困っていることがあるはずじゃが…」
と問いかけた。

善八は、激しく疑わしい目で行者にたずねた。

「もしかして、千年も前に伊豆に流されたという、とてつもなく根性が悪く、かつセコい!といわれた役行者様ですか?一体、何が目当てでこの世に舞い戻ったんで?」

「なんにも…ン?『根性が悪い』と『セコい』は余計じゃ!これはわしと弥勒菩薩様の間でのとり決め事で、チミたちから何かを得るためにこの世に来たわけではないのじゃ!この世の中の理不尽をただすためにつかわされた、正義の使者なのじゃ!」

善八はご先祖の遺訓をやっと思い出した。

荘厳だの、天からつかわされただの、遺訓にあったことも覚えてはいたが、目の前にいる男はその見栄え(イメージ)からはほど遠く、おもわず正直に本心を口に出してしまったのだった…。


「親方、ただいま帰りました、大変なお触れが出てますぜ!」
店先で太助の声がした。
「ご公儀も何をトチ狂ったか、今度は公方様(徳川将軍)のご命ということで町民を追いたてて犬小屋を作り、野良犬を集めるっていうお触れが出ましたぜ!」

「太助、裏にまわってこい。その話を聞かせろ!」

徳川綱吉は元々は二十五万石館林(たてばやし)藩藩主であった。
兄の四代将軍家綱病死のあとをうけ、水戸藩主徳川光圀や老中堀田正俊などの強力な推挙により、延宝(えんぽう)八年(一六八〇年)、三十五歳で五代将軍として江戸城本丸に迎えられた。

将軍就位に反対した先の大老酒井忠清他を廃し、堀田正俊を大老に抜擢して積極的な将軍親政(しんせい)を開始した。

綱吉は、

「余は凡下(ぼんげ)(庶民)とは頭のできが違うのである。年をくっているだけの爺ぃたちがたばになっても余一人の頭脳には勝てないのである。自分が深く帰依し研鑽をつんでいる儒教や仏教を下々にひろめることで、飢饉や天変地異などもさけられて政はうまくいくのである。
何せ、余は神君・家康公の曾孫(そそん)(ひい孫)であり、天朝様(今上(きんじょう)天皇)を除けば最高の貴種であるからして。最高の貴種が何をやっても、凡下はありがたがって素直に従うべきなのである!」

というなんら根拠のないアホな確信をいだいていた。

一方で、家庭内制御にはそうとうに手こずっていた。

その行動基準は母親桂昌院(けいしょういん)(お玉)への孝行が第一であり、次に綱吉を軽蔑している正室信子と、信子をけとばして綱吉の寵愛を独占した側室お伝の機嫌をとることにあった。

言わば、できの悪い母親怖い(マザコン)親父が、家庭内離婚と馬鹿嫁制御という、ひどく気疲れのする二つの闘争(バトル)に日々苦闘しているのである。

見栄ばかりで生産能力が欠如している貴族出身の正室・信子と、生殖能力のみ旺盛な無教養な側室・お伝との角逐(せめぎ合い)になやまされる日々だったのだ…。

かたや、信子が公家鷹司(たかつかさ)家の姫である、都から同行した公家出身の側室・侍女勢力が結束している。

かたや、賭博の喧嘩で殺されるような愚劣な兄を持つ黒鍬者(くろくわもの)の娘であるお伝が、素性のハッキリしない桂昌院の支援を受けた勢力を作っている。

この両勢力の衝突を調整しながら、問題解決を先送りするのに大半の時間をついやす日々なのである。

やがて、綱吉は将軍としての現実政治から、しだいに遊離していったのである。

当時の文化人としての流行である尊皇思想にも傾倒していった。
そのため、国中あちこちで飢饉のため多くの民が難儀しているのに目もくれず、公家領を倍増したりする始末である。

将軍宣下(せんげ)をうけ、理想(マニフェスト)(のようなもの?)に燃えた政を行なうつもりが、現実に無知な綱吉は、一つとして自分の思いどおりにならないため、儒学や仏教に一層のめりこんでいった。

そして、どのように作られたのか不明の、母親桂昌院からのお小遣いと言っている毎年千両(約二億円)近くもの金を、訳のわからん公家などにばらまいて人気とりを行うのであった。職人や下級武士の年収が、十両(約二〇〇万円)から二十両程度の時代である、そのアホさかげんにはあいた口がふさがらないというほかなかった。

やがて目が泳ぎ始めた。
そして、子宝にめぐまれる効果があるという、あやしげな坊主の口車に簡単にのってしまい、軽薄な桂昌院とお伝を除いては誰一人望んでいない、余計なことをやってしまった。

貞享(じょうきょう)四年(一六八七年)、『生類憐みの令』の最初の触れが日本橋の高札場にはり出されたのである。

生類憐みの令は、もともとは生きとし生けるものに対する『友愛』の心を大事にせよ、とのつもりのものであった。したがって、最初に出された政令は殺生を禁止するという内容のみであった。

ただ、十分に吟味することなく、思いつき的に出される政令というものは、実際に適用されるときには役人により内容が歪曲され、庶民に対する影響は決まって難儀なものになると言う、普通の為政者(政治家)にとっては常識とも言えることに、綱吉はまったく思いおよばなかった。

そして、自分たちの縄張りを守り権益を拡大することを本能とするアホな役人は、いつの世にもいるものである。

その者たちはシャカリキで拡大解釈を行い、政令を押し進めていった。
時が経つにつれて取りしまりの対象や罰則が激化(エスカレート)していき、綱吉はすべての武士や庶民からうらまれることになったのである。

綱吉が丙戌(ひのえいぬ)年生まれであったために特に犬が保護され、犬を虐待する者はビシバシ取りしまられることとなった。

予想されたことではあるが、犬虐待をネタにした悪質ないやがらせやゆすりが、人びとを苦しめ始めた。
そして、綱吉自身も百匹の狆犬(ちん)をかっていたのだが、公儀でも八万匹もの野良犬を集めて餌を与えて保護するという、トンチンカン令を出したのである。

公儀お犬小屋をあちこちに設置すると、当然であるが地元では轟々の移設運動が起こった。

「最低でも朱引(しゅび)き外(江戸市域外)、できれば関八州外(江戸膝元地域外)、理想的には海をへだてた外様大名領(外国)に移す」

と空約束をしたが、お犬小屋が想定された土地の領主や農民、大名の反対にあい、結局そのままに置かれたままである。

一方で、全国各地で発生する飢饉は、とどまるところを知らず拡大していた。

冷害のために田畑や山林の物成りがないため、食べ物を鳥獣や魚に求めざるを得ないのにもかかわらず、それが許されない人びとは次々に餓死していった。

生き残っている者が餓死者の埋葬をしたくともその力もなく、遺体を餌食とする野犬や烏を追いはらうことも許されず…、まさに地獄ともいえる苦痛をしいられたのである。
飢饉のせいで、江戸でも米野菜の物価高騰のあおりをうける多くの人びとが困窮することになった。

この政令が出るまで東照神君(とうしょうしんくん)・家康公の生まれ変わりとまで言われていた綱吉の人気はガタ落ちとなった。

江戸の有力な大手読売屋(メジャーマスコミ)、一丁目屋(1チャンネル)・四丁目屋(4チャンネル)・五丁目屋(5チャンネル)・六丁目屋(6チャンネル)・七丁目屋(7チャンネル)・八丁目屋(8チャンネル)などの、将軍人気調べ(支持率調査)の結果が出た。

それによると、いままで歴代将軍のなかで最低といわれていた、あの先代の『そうせい様(唐の言葉をチョッと話せることを自慢していた、本当はかな文字だけの黄表紙(マンガ)を読む能力しかなかった先代)』よりも、人気率がさがったということである。

やがて『犬公方(いぬくぼう)』とあざけられるようになった。しかし本人は感じない…。

『犬耳東風(けんじとうふう)?』恐るべし!
「頼むから将軍(首相?)をやめてくれ」
「家康様系譜(与党保守本流グループ?)の将軍(首相?)擁立ができなくなる」
「外様大名(革新系野党グループ?)にとってかわられる」
と、徳川武士団(与党グループ?)からも、悲鳴が出る始末であった。

一度は、
「お城を出て政から離れる(バッジを外し政治から身を引く)」
と言ったにもかかわらず、どういう頭をしているのかすぐに忘れてしまった。

やがて、
「なんの成果も出ない口さきだけの約束を『ウソ』というのではないか!大ウソツキ将軍だ!」
と、人々の非難の嵐が吹きあれるのだが、当人だけは気づかず、

「人間、うそをコイてはいけません」
と少しも照れることなく言い放つ(アンタニダケハイワレタクナイ)のであった。

恐る…、恐るべし!

城中では、
「宇宙人ならば関係ないか…」
と、みょうに説得力のある解説をする向きもあったのだが…。

将軍就位のさい、強力に後援(バックアップ)したヒヒ爺ぃの水戸光圀(正統保守派長老)などにいたっては、昔のことは忘れたふうで、綱吉に数十枚の犬の毛皮を送りつけるほどにこの生類憐みの令を憎み、この頃では露骨に次期将軍の選定に入る始末であった。

しかし、側用人にして、先頃老中格にあげた側近・柳沢吉保の情報のみしか信じない、かたよった政をやめようとはしなかった。

くどいが、やはり本人だけは感じない!恐る…、恐る…、恐るべし!

世は乱れた。

仕事にもつかず遊び暮らし、金がなくなると年寄りや女子供に引ったくりを仕かける若者が出始めた。

小金賭博(パチンコ?)にうつつを抜かし、乳飲み子をほったらかして死なせてしまう親が出始めた。

悪者を取りしまるのが役目の町方同心(刑事・警察官)の中にも不心得者が出始め、悪徳商人や医者から賄賂を取り、まじめに働く人びとを泣かせた。

将来への望みを失った者たちの首くくりが増え始めた。
それこそこの状況を好機とばかりに、ありとあらゆる犯罪が発生し始め、まじめな庶民は泣き暮らし、自暴自棄に走る者が増え始めた…。


「善八とやら、いまの世の中はどんな塩梅(あんばい)なのじゃ?」
との行者からの問いへの、長々とした話しが終った…。


桃太郎 行者役子角.jpg


善八から話を聞き終えた行者は、いまの世には相当理不尽なことがまかりとおっている、ということがやっとわかってきた。

「ウーム…、わしがつかわされた意味がわかってきたわい…。

元々アホであることを自覚していなかった、実態社会音痴(世の中の真実を知らないボンボン)の綱吉がアホな政令を出して、特異な家庭環境がアホな拍車をかけて、アホな役人がシャカリキになって、色んな理不尽がまかりとおるアホな世のなかになってきたというわけか…。言わば、アホの大売り出し(バーゲンセール)じゃな…」

と言いながらも、
「ここぞ、という目立つ活躍が必要なときに手助けしてつかわす。わしはチョッと昼寝するから用があったらこの扉をたたいてくれ」
と横になって、たちまちいびきをかき始めた。

善八と太助は第三の扉から外に出てふり返ると、出てきた扉はただの落書きになっているのだった。

それからというもの、行者は中の蔵の第三の部屋に住みついてしまったのだ。
時おり仕世堂に顔を出しては焼酎をねだり、町なかにふらっと出ていく程度で特に何かをするわけでもない。

もっとも行者としては、目立つ活躍のための体力温存の時であったのだが…。

「ま、悪さをするわけじゃないし、さわらぬ爺ぃにたたりなし、ということでしばらくほおっておくか」
と、善八はつぶやいた。
続く
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2020年01月07日

四 俺たちゃ、りふじん堂!



『小さな角』のつぶやき…


修験者、神、仏、そして英雄たち…、メンドクサイオヤジたちの登場か…。

ともあれ、これから始まる物語の発端が、この者たちにあったわけか…。

それにしても、失敗もあり嫉妬もあり…か、神仏も人と同じなんだな…。
もっとも、神仏は人々の心の中にあるものと考えればあたり前か。

ところで、あの将軍が主催し、訳ノワカラン分からん若造たちが行う政の水準(レベル)は、幼年寺子屋の決めごと話し合い(小学校の学級委員会)以下だな!

これから始まる難儀な物語の種が育ったのもうなずける…。

アッ、わが輩?

行者・役小角が生まれた時に頭に生えていた角です。
行者から独立して、超空間から行者の行いを監視しているのです…。



四 俺たちゃ、りふじん堂!

「いらっしゃい!お好きな席に」
小僧が、景気のいい声で客を案内した。

日本橋小舟町三丁目の『魚介・薬膳料理・貝(かい)穀屋(こくや)』。

その店名の由来が、実は公儀の法『鎖国』に反対する『開国』からきているのを公儀は気付いていない…。

江戸橋大通りと掘割をはさむ南北の通りの、荒布(あらめ)橋から北に半町(約五〇メートル)ほどのところに、目元がハッキリした、どこか異国のふうを思わせる女主人が取り仕切る店である。

新鮮な魚介類を使った安価な料理から、効き目抜群で、しかもこれも安価な薬膳料理まで出す店として知られている。一階は気軽な入れ込みで、二階は高級香(こう)『李夫人(りふじん)』の優雅な香りが満ちた座敷が用意されている。

そして、和薬はもちろん唐・南蛮わたりの高価な薬や香を扱い、小売りもする店としても知られていた。

これには、懇意にしている腕の良い津田慶順(つだけいじゅん)という町医師の忠告と助言(アドバイス)が大きく活かされており、庶民の健康に役立つ薬膳料理にも工夫がなされていた。

慶順は、漢方を修めたあと、蘭方(らんぽう)の大家・西玄甫(にしげんぽ)に師事して蘭方医術を修めた江戸屈指の名医であるが、金や名利にはまったく興味がない男である。

貝穀屋は、慶順に全面的に協力しており、今は、女主人が手代を連れて関西・長崎へと薬材の仕入れに出ているため、支配人と小僧が、通いの板前を使いながら店を守っている。

店の間口は四間(七メートル余り)ほどであるが奥行きがあり、奥には小ぶりだが、薬や香を保管する頑丈な蔵をかまえていた。


貝穀屋の面々は英雄の子孫であった。


お京(きょう)。女将、二十過。

納屋助左衛門と柬埔寨(カンボジア)王国リヤミヤチューンプレイ王の王女との間にできたイェン姫の末裔である。並の男など何ほどのこともない、柬埔寨(カンボジア)拳法ボッタカオの達人である。鎖国令に深く憤っており、店の名を貝穀(開国)屋としている。

宗兵衛(そうべえ)。支配人、三十代半。

奥州で、源頼朝の祖父にあたる源頼義と、後の世に前九年の役と称される死闘で滅ぼされた、安倍貞任(あべのさだとう)の軍師として共に戦った弟、安倍宗任の子孫である。今なお、その昔奥州の鉱脈探索集団であった『厨川衆(くりやがわしゅう)』とつながりがあり、土木と火術を得意としている。身勝手で傲慢な権力の圧迫を見すごせない男である。

翔吉(しょうきち)。手代、二十代半。

今の中国の王朝・清国に滅ぼされた明国の復興をめざして壮絶に戦った国姓爺(こくせんや)鄭成功の弟、田川七左衛門(たがわしちざえもん)の庶子であり、九州北部に隠然たる勢力を持つ長崎唐人衆の頭領でもある。台湾で今なお明国に義を立て、反清復明をとなえて今も清国に抵抗する地下組織『鄭氏党(ていしとう)』を率いる従兄弟と連携している。唐双剣、唐体術をよく使う。

新助(しんすけ)。小僧、二十手前。

真田左衛門佐幸村に仕え『猿飛』と畏称された稀代の忍び佐助と、散華衆(さんかしゅう)女忍が結ばれて産まれた、双子の兄である。大和(奈良)を拠点として各地の深山に隠れ住む忍び集団『散華衆(往古(おうこ)の山窩(さんか)・ジプシー)の末裔で、故なき差別から身を守るために組織された忍び集団』の頭領であり、幻術、水術と小太刀の達人である。


「とびっきりのネタをしこんできますぜ!」
小僧が走り出していった。


貝穀屋の裏通りに面して、『読売版元・仕世堂(しせいどう)』の板看板がかかっている。

店名は『世の中に仕える』と読めるが、実はご先祖が勝手に決めた子孫の集団(グループ・ジュニア)『世の中仕分け隊』という何ともくさい名前から来ているのだが…。

この通りは、色んな職人店(だな)が軒を連ね、玄人っぽい活気がある通りである。

親方は、狸の置き物のような中年の親父であるが、その風貌からは想像もつかない物語達者であり、京の八文字屋(はちもんじや)をはじめ、各地の読売屋や版元との連絡をたやさず、江戸にいながら全国の情報をつねに把握している。

また、江戸の民生と治安を預かる奉行所筋や御用聞きなどにも協力できるところは協力し、人びとのためになる情報収集ときめ細かい報道をおこたらない。

そして、いろんな事件を、大手読売屋(メジャーマスコミ)とは一味違う切り口で、時の権力者にとっては辛口な筆で町衆に知らせることでも有名である。

一方で、読売は無料で配布することも多いため、もうかっているかと言えばそうでもない…。
店の間口は四間であるが奥行きがあり、版木用の板、紙などを保管しておく蔵を店奥にかまえていた。

親方の下に、彫職人、摺職人、そして聞き取り屋と売り子をかねる小僧がおり、互いに手分けして日々のできごとを江戸の町に知らせている。


仕世堂の面々も英雄の子孫である。


善八(ぜんぱち)。親方、五十手前。

関ヶ原合戦に連携した、会津四境戦争のもとにはせ参じた車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)の子息、車善七の子孫である。理不尽な蔑視に耐える関八州の裏社会(故なく非人と蔑まれる者たちの社会)を束ねる車衆頭領、車善七(くるまぜんしち)とは遠く血がつながっていることから、今でもつきあいを欠かさない。伊藤一刀斎の最後の直弟子であり、その剣の実力ははかりしれない。

本郷武蔵(ほんごうむさし)。彫職人、三十過。

関ヶ原合戦で西軍の中核として家康に対抗した宇喜多秀家の庶子と、秀家にたくされた小西行長の庶子姫がむすばれて誕生した。関ヶ原合戦ののち、宇喜多秀家が薩摩島津家に身を寄せていたおり、主人に従った家臣本郷伊予(ほんごういよ)は秀家と行長の忘れ型見の将来をたくされ、島津家に弓術師範として仕えた。本郷と名のった武蔵も、日置流(へきりゅう)弓術と島津家お家流剣術示現流(じげんりゅう)に熟達することとなった。強者が弱者に加える暴力は決して許さない男である。

尚栄(しょうえい)。刷(すり)職人、三十手前。

薩摩島津家に侵略された琉球国尚寧王(しょうねいおう)の腹心、謝名親方(じゃなうぇーかた)の子孫である。服従を強いる島津家の目がとどかない、宮古の西、海上一里(約四キロメーター)の伊良部島に拠点をおく独立交易集団『伊良部衆(いらぶしゅう)』の頭であり、いまでも琉球王朝に忠誠をつくしている。江戸に渡ってくる前に、島津家の示現流の猛者五人に素手で挑戦し、悉(ことごと)く打ちたおしたほどの琉球唐手の達人である。

太(た)助(すけ)。小僧、二十手前。

新助の双子兄弟の弟で、兄同様、差別は絶対許すことはしない。奥羽から九州までの拠点に散華衆を配して伝書鳩網(ピジョンネットワーク)を作りあげ、各地の情報を瞬時で江戸に集めている。小柄(こづか)投げと鳥獣使いの達者である。

貝穀屋と仕世堂は、実は背中合わせに立っているのだが、それぞれ表裏の通りに面しており、道行く人は気が付かない。二つの店奥の蔵は行き来ができる。

りふじん堂地図.png



『中の蔵(なかのくら)』と言い習わして、理不尽を正す談合の場としている。

八人は、『敗者になり勝者の圧迫を受ける者』『いわれのない差別を受ける者』『無分別な法で縛(しば)られた者』たちの子孫であり、理不尽な目にあっている人々の涙に人一倍敏感である。その難儀を見過ごしにはできない者たちである。

八人は何故か共通の遺訓を持っていた。

八人のご先祖が、八丈島で酒の上のことととはいえ、場のながれで無責任にも『理不尽な目にあっている人びとがいたら、迷うことなく助けよ!理不尽なことを仕かける奴らをこらしめよ!』というものであった。

この遺訓を守り、二つの顔を使い分けて公儀の目をくらましながら、日夜奮闘しているのである。


八人は志を同じくする者たちが、いつとはなく集まったと思っていた…が、実は行者の巧みな導きであることを知らない…。

が、このごろはご先祖の遺訓がどうのこうのではなく、八人は固い絆で結ばれ、抜群の仲間協力関係(チームワーク)で世直しに奔走しているのである。

ところで『世の中仕分け隊』?
情けないほど美意識(センス)が欠落した命名(ネーミング)…、ひとにはとても言えない…、

ということでも一致した。

そして、いつの頃からか貝穀屋と仕世堂の一党は、自分達を、『りふじん堂』と呼び慣(なら)わしている…。
続く
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posted by ぷんぷん at 17:06| Comment(0) | りふじん堂・桃太郎奇譚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月02日

三 八人の英雄登場!

弥勒菩薩の目をかわすように時空を超えては、人里離れたあちこちの山に場所をかえて眠りにつくことをくり返してきた。
そして千年近く、天上界と人間界、過去と未来を行ったり来たりしている間に、だいぶボケが進んできた…。

ところがなんと、この千年の時に伴う適当なボケが、鬼神(きじん)使いと恐れられた行者を、ただの涙もろい爺ぃに変身させることになったのである。

人びとの悲しみにつながる事件に出くわすと、緩んだ涙腺から大粒の涙があふれるようになってきて、近ごろは積極的に世直しを進める姿勢さえ垣間見えるようになってきている。
とは言いながら、その怠惰な本性は完全にはなおらず、みずから手をくだすのは面倒くさくなってきている…。

そんなある日、その頭のテッペンに灯が輝き、良き思案(グッドアイデア)が閃いた(ような気がした)。

「そうじゃ、今まで手をかしてきた英雄たちの子孫がいるではないか…。

それとなくわしの仕事を請け負わせよう(ナリフリ構わず下請けにして押し付けよう)!」


桃太郎 行者役子角.jpg




三 八人の英雄登場!


行者は、関ヶ原合戦が終わって十年後の慶長十五年(一六一〇年)の紀伊((和歌山))・九度山(くどさん)に飛んだ。
そして蟄居中である真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村(ゆきむら)の夢枕に立ち(勝手に脳に侵入し)、ボソボソと唆(そそのか)した。

「余は弥勒菩薩につかわされた偉あい行者である。その実力は神にもたとえられるほどの者なのだ」
と、まず自己宣伝(じこPR)から始めた。

「君は英雄だ。大変な活躍をしたことは承知しておる。しかし、真の英雄になるには、時代を超えて志を受けつぐ者たちを育て、永遠の名声を残すことこそ重要なのだっ!ウンヌンカンヌン…」

そして、八丈島・八重根浜(はちじょうじま・やえねはま)の光景を幸村の脳裏に映し出して、
「この浜にいることを念じよ。この浜にいる自分を思い描け。時を超えた真の英雄となるための道標が明らかにされるであろう…」
と言って…消えた。

幸村は目がさめてつぶやいた。

「なんだ…、爽やかさの対極にある、この寝ざめの気分の悪さは…」
夢枕に立った者は、何やら訳ノワカラン、神などとはまるで無縁な品の無さがただよっていた。だが山流(やまなが)し状態でどうせ閑な幸村は夢のとおりに念じてみた。

…驚いた!

行者は、さらに各地・各時代の七人の夢枕に立っては同じことをくり返した。
七つの『!』が加えられた。

なんと宇喜多秀家が配(はい)流(る)されている八丈島に、八人が集結したのである。

実は、行者の夢枕囁き(マインドコントロール)の術と超時空移動(タイムトラベル)の術の合わせ技だったのだが…。

集結したのは、時の権力の横暴に激昂して、後先考えることなく時代を画する戦いに参戦した八人の英雄であった。

すなわち、オッサン八人衆!

朝廷派遣の源頼義に、優勢な戦いを挑んだ安倍(あべの)貞任(さだとう)とともに戦った弟、安倍宗任(むねとう)。五〇二年まえに七十六歳で死没していたが、時空(じくう)を超えて五十五歳の身で参上。

豊臣秀吉に反抗し呂宋(ルソン(フィリピン))に雄飛した納屋(なや)(呂宋)助左衛門(すけざえもん)。このとき四十五歳で参上。

宇喜多秀家。関ヶ原合戦で西軍の中核として家康をおびやかした。このとき三十八歳。

同じく西軍の雄として東軍と戦った小西行長(こにしゆきなが)。十年まえに四十五歳で死没していたが、時空を超え四十歳の身で参上。

関ヶ原合戦に連携した会津((福島)四境(しきょう))戦争にはせ参じた車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)の子、車善七(くるまぜんしち)。このとき五十五歳で参上。

関ヶ原合戦から大坂の陣にかけて、徳川家康に敢然と戦いを挑んだ真田左衛門佐幸村。このとき四十三歳。

唐(から(中国))の明朝復興のため清朝と壮絶に戦うことになる、国姓爺(こくせんや)鄭成功(ていせいこう)の弟、田川七左衛門。このとき生誕十八年まえだが、時空を超えて四十五歳の身で参上。

薩摩島津家の進攻に敢然と抵抗した琉球国尚寧王(しょうねいおう)の腹心、謝名親方(じゃな うぇーかた)。このとき六十一歳で参上。


八人の英雄は、世直しについて激論をかわした。

英雄たちは好きかってに自分の思いのたけをわめきあい、まるで建設的な意見の集約は望めないように思えた。

しかし、酒が入ってからオッサン達は息切れ激しくなり、その合い間、合い間に他の者たちの言うことを聞き始めると、八人のそれぞれのわがままな郷愁(ノスタルジア)の方向性は一致していることがわかったのだ。

なんのことはない。皆は、

「権威にこびず世直しを行う『超法規有志組織(ちょうほうきゆうしそしき)』が必要である!その組織にはわが子孫が適任である!」

という同じことを主張していたのだが、人の言うことは全く聞かないという、共通のわがまま体質であるだけのことであった…。

とにかく皆は、主張と志を遺訓として子孫につたえ、子々孫々までおよぶ(むりやり拘束する)世直し組織、『権威にたよらず世の理不尽をゆるさない者達同盟!略称、世のなか仕分け隊!』なるものを創ることで一致した。

相〜当くさい組織の名前付け(ネーミング)だが、そんなことにはおかまいなしのオッサン達は、その同盟の執念に近い概念(コンセプト)までさだめた。

「権力に目を向けることなく、世のため人のため、身を粉にして働くべし。
その働きによる栄華を求めるなど、もっての外と心得るべし。
神仏も許したもうと信ずる時は、敢然として臆(おく)することなかれ。断然実行せよ。

炎進(ファイアーッ)!」

超空間からこの宴を見ていた行者は、ここで中空から八枚の紙を撒いた。

この紙は行者が修験道を修業した大和国葛城山の楮(こうぞ)から作った物であり、時空を超えてその所在を追うことができる。

行者は、八枚の紙が時とともに江戸に集まってくるように在所者上京(おのぼりさん)の術をかけた。術をかけた物を持つ者が自らは意識することなく江戸に向かってくるという術であり、呪文を唱えると、今どこにいるかを知ることもできるのだ。

紙の冒頭には『遺訓』と記されていた。

オッサン達は盛りあがり、都合よく空から降ってきた不自然さにはまったく気にもとめず、紙に遺訓を書きちらした。
そして、盛りあがったあまり地酒を飲みすぎて、朝までゲロを吐く始末であったようである…。


その頃、伊豆の洞窟で惰眠していた、品のない音に敏感に反応する特異体質の行者は、その胆汁が混じる音に目覚め、八重根浜をのぞいてみた。
そして八人が酔っぱらって投げ出していた、子孫に残した八枚の遺訓書を手に取ると、その末尾に、そ〜っと…、

(世が乱れる兆しが見えた時、わが子孫のもとに荘厳な雰囲気をまとった天からの使い、行者・役小角という者が現われ、そなた達を助けるであろう…)
と書き加えた。

行者は、ゴーゴーと鼾をかいて爆睡している八人のふところに遺訓書を差しこんで、それぞれの往生がせまる時点に連れ帰った。

その後、
江戸のとある店の蔵のなかに異空間隠遁(ひきこもり)の術を使い勝手に部屋をこしらえると、孔雀明王経(くじゃくみょうおうきょう)を唱え在所者上京(おのぼりさん)の術で、遺訓書の動きを確かめ始めた。

北は奥州、南は琉球までの範囲にその生を受け遺訓書を授けられた八人の英雄の子孫は、江戸に集まるには八十年近くの時が必要であることがわかった。

そこで八十年の時を超えて江戸の各町に暮らす八人の英雄の子孫に、この蔵の周りに集まるようにとの夢枕囁き(マインドコントロール)の術をかけ終えた。

その後ニンマリとした行者は、また惰眠をむさぼっていた…。


そして今、八人の英雄の談合後八十数年経って、弥勒菩薩からたたき起こされた、ということになる。


「クソッ、ばれないと思ったのに…」
行者は永い眠りからさまされた。と同時に、
「ブッ!」
とやってしまった。

顔をしかめた弥勒菩薩は、行者に一撃をあびせようと力んだ。その瞬間、
「ブブッ!」
と倍返しでやってしまった。頬を染めた弥勒菩薩はそそくさと姿を消した。
が、その木の実のような眼で熱きまなざし(アイコンタクト)をすることだけは忘れなかった。

(わかってるな、そろそろ働け!)
と弥勒菩薩の眼は言っていた。

行者は、いまどこに寝ていたのかを思い出すためにしばらく腕を組んでいた。
そして、いまは元禄八年(一六九五年)、徳川綱吉の治世下であり、江戸日本橋の蔵の中に目をさましたことを、やっと思い出した。

が、とにかく自分のと、弥勒菩薩との強烈な臭いに耐えかね、異空間に作った部屋から脱出することにした。
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posted by ぷんぷん at 18:56| Comment(2) | りふじん堂・桃太郎奇譚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする