2020年01月07日

四 俺たちゃ、りふじん堂!



『小さな角』のつぶやき…


修験者、神、仏、そして英雄たち…、メンドクサイオヤジたちの登場か…。

ともあれ、これから始まる物語の発端が、この者たちにあったわけか…。

それにしても、失敗もあり嫉妬もあり…か、神仏も人と同じなんだな…。
もっとも、神仏は人々の心の中にあるものと考えればあたり前か。

ところで、あの将軍が主催し、訳ノワカラン分からん若造たちが行う政の水準(レベル)は、幼年寺子屋の決めごと話し合い(小学校の学級委員会)以下だな!

これから始まる難儀な物語の種が育ったのもうなずける…。

アッ、わが輩?

行者・役小角が生まれた時に頭に生えていた角です。
行者から独立して、超空間から行者の行いを監視しているのです…。



四 俺たちゃ、りふじん堂!

「いらっしゃい!お好きな席に」
小僧が、景気のいい声で客を案内した。

日本橋小舟町三丁目の『魚介・薬膳料理・貝(かい)穀屋(こくや)』。

その店名の由来が、実は公儀の法『鎖国』に反対する『開国』からきているのを公儀は気付いていない…。

江戸橋大通りと掘割をはさむ南北の通りの、荒布(あらめ)橋から北に半町(約五〇メートル)ほどのところに、目元がハッキリした、どこか異国のふうを思わせる女主人が取り仕切る店である。

新鮮な魚介類を使った安価な料理から、効き目抜群で、しかもこれも安価な薬膳料理まで出す店として知られている。一階は気軽な入れ込みで、二階は高級香(こう)『李夫人(りふじん)』の優雅な香りが満ちた座敷が用意されている。

そして、和薬はもちろん唐・南蛮わたりの高価な薬や香を扱い、小売りもする店としても知られていた。

これには、懇意にしている腕の良い津田慶順(つだけいじゅん)という町医師の忠告と助言(アドバイス)が大きく活かされており、庶民の健康に役立つ薬膳料理にも工夫がなされていた。

慶順は、漢方を修めたあと、蘭方(らんぽう)の大家・西玄甫(にしげんぽ)に師事して蘭方医術を修めた江戸屈指の名医であるが、金や名利にはまったく興味がない男である。

貝穀屋は、慶順に全面的に協力しており、今は、女主人が手代を連れて関西・長崎へと薬材の仕入れに出ているため、支配人と小僧が、通いの板前を使いながら店を守っている。

店の間口は四間(七メートル余り)ほどであるが奥行きがあり、奥には小ぶりだが、薬や香を保管する頑丈な蔵をかまえていた。


貝穀屋の面々は英雄の子孫であった。


お京(きょう)。女将、二十過。

納屋助左衛門と柬埔寨(カンボジア)王国リヤミヤチューンプレイ王の王女との間にできたイェン姫の末裔である。並の男など何ほどのこともない、柬埔寨(カンボジア)拳法ボッタカオの達人である。鎖国令に深く憤っており、店の名を貝穀(開国)屋としている。

宗兵衛(そうべえ)。支配人、三十代半。

奥州で、源頼朝の祖父にあたる源頼義と、後の世に前九年の役と称される死闘で滅ぼされた、安倍貞任(あべのさだとう)の軍師として共に戦った弟、安倍宗任の子孫である。今なお、その昔奥州の鉱脈探索集団であった『厨川衆(くりやがわしゅう)』とつながりがあり、土木と火術を得意としている。身勝手で傲慢な権力の圧迫を見すごせない男である。

翔吉(しょうきち)。手代、二十代半。

今の中国の王朝・清国に滅ぼされた明国の復興をめざして壮絶に戦った国姓爺(こくせんや)鄭成功の弟、田川七左衛門(たがわしちざえもん)の庶子であり、九州北部に隠然たる勢力を持つ長崎唐人衆の頭領でもある。台湾で今なお明国に義を立て、反清復明をとなえて今も清国に抵抗する地下組織『鄭氏党(ていしとう)』を率いる従兄弟と連携している。唐双剣、唐体術をよく使う。

新助(しんすけ)。小僧、二十手前。

真田左衛門佐幸村に仕え『猿飛』と畏称された稀代の忍び佐助と、散華衆(さんかしゅう)女忍が結ばれて産まれた、双子の兄である。大和(奈良)を拠点として各地の深山に隠れ住む忍び集団『散華衆(往古(おうこ)の山窩(さんか)・ジプシー)の末裔で、故なき差別から身を守るために組織された忍び集団』の頭領であり、幻術、水術と小太刀の達人である。


「とびっきりのネタをしこんできますぜ!」
小僧が走り出していった。


貝穀屋の裏通りに面して、『読売版元・仕世堂(しせいどう)』の板看板がかかっている。

店名は『世の中に仕える』と読めるが、実はご先祖が勝手に決めた子孫の集団(グループ・ジュニア)『世の中仕分け隊』という何ともくさい名前から来ているのだが…。

この通りは、色んな職人店(だな)が軒を連ね、玄人っぽい活気がある通りである。

親方は、狸の置き物のような中年の親父であるが、その風貌からは想像もつかない物語達者であり、京の八文字屋(はちもんじや)をはじめ、各地の読売屋や版元との連絡をたやさず、江戸にいながら全国の情報をつねに把握している。

また、江戸の民生と治安を預かる奉行所筋や御用聞きなどにも協力できるところは協力し、人びとのためになる情報収集ときめ細かい報道をおこたらない。

そして、いろんな事件を、大手読売屋(メジャーマスコミ)とは一味違う切り口で、時の権力者にとっては辛口な筆で町衆に知らせることでも有名である。

一方で、読売は無料で配布することも多いため、もうかっているかと言えばそうでもない…。
店の間口は四間であるが奥行きがあり、版木用の板、紙などを保管しておく蔵を店奥にかまえていた。

親方の下に、彫職人、摺職人、そして聞き取り屋と売り子をかねる小僧がおり、互いに手分けして日々のできごとを江戸の町に知らせている。


仕世堂の面々も英雄の子孫である。


善八(ぜんぱち)。親方、五十手前。

関ヶ原合戦に連携した、会津四境戦争のもとにはせ参じた車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)の子息、車善七の子孫である。理不尽な蔑視に耐える関八州の裏社会(故なく非人と蔑まれる者たちの社会)を束ねる車衆頭領、車善七(くるまぜんしち)とは遠く血がつながっていることから、今でもつきあいを欠かさない。伊藤一刀斎の最後の直弟子であり、その剣の実力ははかりしれない。

本郷武蔵(ほんごうむさし)。彫職人、三十過。

関ヶ原合戦で西軍の中核として家康に対抗した宇喜多秀家の庶子と、秀家にたくされた小西行長の庶子姫がむすばれて誕生した。関ヶ原合戦ののち、宇喜多秀家が薩摩島津家に身を寄せていたおり、主人に従った家臣本郷伊予(ほんごういよ)は秀家と行長の忘れ型見の将来をたくされ、島津家に弓術師範として仕えた。本郷と名のった武蔵も、日置流(へきりゅう)弓術と島津家お家流剣術示現流(じげんりゅう)に熟達することとなった。強者が弱者に加える暴力は決して許さない男である。

尚栄(しょうえい)。刷(すり)職人、三十手前。

薩摩島津家に侵略された琉球国尚寧王(しょうねいおう)の腹心、謝名親方(じゃなうぇーかた)の子孫である。服従を強いる島津家の目がとどかない、宮古の西、海上一里(約四キロメーター)の伊良部島に拠点をおく独立交易集団『伊良部衆(いらぶしゅう)』の頭であり、いまでも琉球王朝に忠誠をつくしている。江戸に渡ってくる前に、島津家の示現流の猛者五人に素手で挑戦し、悉(ことごと)く打ちたおしたほどの琉球唐手の達人である。

太(た)助(すけ)。小僧、二十手前。

新助の双子兄弟の弟で、兄同様、差別は絶対許すことはしない。奥羽から九州までの拠点に散華衆を配して伝書鳩網(ピジョンネットワーク)を作りあげ、各地の情報を瞬時で江戸に集めている。小柄(こづか)投げと鳥獣使いの達者である。

貝穀屋と仕世堂は、実は背中合わせに立っているのだが、それぞれ表裏の通りに面しており、道行く人は気が付かない。二つの店奥の蔵は行き来ができる。

りふじん堂地図.png



『中の蔵(なかのくら)』と言い習わして、理不尽を正す談合の場としている。

八人は、『敗者になり勝者の圧迫を受ける者』『いわれのない差別を受ける者』『無分別な法で縛(しば)られた者』たちの子孫であり、理不尽な目にあっている人々の涙に人一倍敏感である。その難儀を見過ごしにはできない者たちである。

八人は何故か共通の遺訓を持っていた。

八人のご先祖が、八丈島で酒の上のことととはいえ、場のながれで無責任にも『理不尽な目にあっている人びとがいたら、迷うことなく助けよ!理不尽なことを仕かける奴らをこらしめよ!』というものであった。

この遺訓を守り、二つの顔を使い分けて公儀の目をくらましながら、日夜奮闘しているのである。


八人は志を同じくする者たちが、いつとはなく集まったと思っていた…が、実は行者の巧みな導きであることを知らない…。

が、このごろはご先祖の遺訓がどうのこうのではなく、八人は固い絆で結ばれ、抜群の仲間協力関係(チームワーク)で世直しに奔走しているのである。

ところで『世の中仕分け隊』?
情けないほど美意識(センス)が欠落した命名(ネーミング)…、ひとにはとても言えない…、

ということでも一致した。

そして、いつの頃からか貝穀屋と仕世堂の一党は、自分達を、『りふじん堂』と呼び慣(なら)わしている…。
続く
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posted by ぷんぷん at 17:06| Comment(0) | りふじん堂・桃太郎奇譚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月02日

三 八人の英雄登場!

弥勒菩薩の目をかわすように時空を超えては、人里離れたあちこちの山に場所をかえて眠りにつくことをくり返してきた。
そして千年近く、天上界と人間界、過去と未来を行ったり来たりしている間に、だいぶボケが進んできた…。

ところがなんと、この千年の時に伴う適当なボケが、鬼神(きじん)使いと恐れられた行者を、ただの涙もろい爺ぃに変身させることになったのである。

人びとの悲しみにつながる事件に出くわすと、緩んだ涙腺から大粒の涙があふれるようになってきて、近ごろは積極的に世直しを進める姿勢さえ垣間見えるようになってきている。
とは言いながら、その怠惰な本性は完全にはなおらず、みずから手をくだすのは面倒くさくなってきている…。

そんなある日、その頭のテッペンに灯が輝き、良き思案(グッドアイデア)が閃いた(ような気がした)。

「そうじゃ、今まで手をかしてきた英雄たちの子孫がいるではないか…。

それとなくわしの仕事を請け負わせよう(ナリフリ構わず下請けにして押し付けよう)!」


桃太郎 行者役子角.jpg




三 八人の英雄登場!


行者は、関ヶ原合戦が終わって十年後の慶長十五年(一六一〇年)の紀伊((和歌山))・九度山(くどさん)に飛んだ。
そして蟄居中である真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村(ゆきむら)の夢枕に立ち(勝手に脳に侵入し)、ボソボソと唆(そそのか)した。

「余は弥勒菩薩につかわされた偉あい行者である。その実力は神にもたとえられるほどの者なのだ」
と、まず自己宣伝(じこPR)から始めた。

「君は英雄だ。大変な活躍をしたことは承知しておる。しかし、真の英雄になるには、時代を超えて志を受けつぐ者たちを育て、永遠の名声を残すことこそ重要なのだっ!ウンヌンカンヌン…」

そして、八丈島・八重根浜(はちじょうじま・やえねはま)の光景を幸村の脳裏に映し出して、
「この浜にいることを念じよ。この浜にいる自分を思い描け。時を超えた真の英雄となるための道標が明らかにされるであろう…」
と言って…消えた。

幸村は目がさめてつぶやいた。

「なんだ…、爽やかさの対極にある、この寝ざめの気分の悪さは…」
夢枕に立った者は、何やら訳ノワカラン、神などとはまるで無縁な品の無さがただよっていた。だが山流(やまなが)し状態でどうせ閑な幸村は夢のとおりに念じてみた。

…驚いた!

行者は、さらに各地・各時代の七人の夢枕に立っては同じことをくり返した。
七つの『!』が加えられた。

なんと宇喜多秀家が配(はい)流(る)されている八丈島に、八人が集結したのである。

実は、行者の夢枕囁き(マインドコントロール)の術と超時空移動(タイムトラベル)の術の合わせ技だったのだが…。

集結したのは、時の権力の横暴に激昂して、後先考えることなく時代を画する戦いに参戦した八人の英雄であった。

すなわち、オッサン八人衆!

朝廷派遣の源頼義に、優勢な戦いを挑んだ安倍(あべの)貞任(さだとう)とともに戦った弟、安倍宗任(むねとう)。五〇二年まえに七十六歳で死没していたが、時空(じくう)を超えて五十五歳の身で参上。

豊臣秀吉に反抗し呂宋(ルソン(フィリピン))に雄飛した納屋(なや)(呂宋)助左衛門(すけざえもん)。このとき四十五歳で参上。

宇喜多秀家。関ヶ原合戦で西軍の中核として家康をおびやかした。このとき三十八歳。

同じく西軍の雄として東軍と戦った小西行長(こにしゆきなが)。十年まえに四十五歳で死没していたが、時空を超え四十歳の身で参上。

関ヶ原合戦に連携した会津((福島)四境(しきょう))戦争にはせ参じた車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)の子、車善七(くるまぜんしち)。このとき五十五歳で参上。

関ヶ原合戦から大坂の陣にかけて、徳川家康に敢然と戦いを挑んだ真田左衛門佐幸村。このとき四十三歳。

唐(から(中国))の明朝復興のため清朝と壮絶に戦うことになる、国姓爺(こくせんや)鄭成功(ていせいこう)の弟、田川七左衛門。このとき生誕十八年まえだが、時空を超えて四十五歳の身で参上。

薩摩島津家の進攻に敢然と抵抗した琉球国尚寧王(しょうねいおう)の腹心、謝名親方(じゃな うぇーかた)。このとき六十一歳で参上。


八人の英雄は、世直しについて激論をかわした。

英雄たちは好きかってに自分の思いのたけをわめきあい、まるで建設的な意見の集約は望めないように思えた。

しかし、酒が入ってからオッサン達は息切れ激しくなり、その合い間、合い間に他の者たちの言うことを聞き始めると、八人のそれぞれのわがままな郷愁(ノスタルジア)の方向性は一致していることがわかったのだ。

なんのことはない。皆は、

「権威にこびず世直しを行う『超法規有志組織(ちょうほうきゆうしそしき)』が必要である!その組織にはわが子孫が適任である!」

という同じことを主張していたのだが、人の言うことは全く聞かないという、共通のわがまま体質であるだけのことであった…。

とにかく皆は、主張と志を遺訓として子孫につたえ、子々孫々までおよぶ(むりやり拘束する)世直し組織、『権威にたよらず世の理不尽をゆるさない者達同盟!略称、世のなか仕分け隊!』なるものを創ることで一致した。

相〜当くさい組織の名前付け(ネーミング)だが、そんなことにはおかまいなしのオッサン達は、その同盟の執念に近い概念(コンセプト)までさだめた。

「権力に目を向けることなく、世のため人のため、身を粉にして働くべし。
その働きによる栄華を求めるなど、もっての外と心得るべし。
神仏も許したもうと信ずる時は、敢然として臆(おく)することなかれ。断然実行せよ。

炎進(ファイアーッ)!」

超空間からこの宴を見ていた行者は、ここで中空から八枚の紙を撒いた。

この紙は行者が修験道を修業した大和国葛城山の楮(こうぞ)から作った物であり、時空を超えてその所在を追うことができる。

行者は、八枚の紙が時とともに江戸に集まってくるように在所者上京(おのぼりさん)の術をかけた。術をかけた物を持つ者が自らは意識することなく江戸に向かってくるという術であり、呪文を唱えると、今どこにいるかを知ることもできるのだ。

紙の冒頭には『遺訓』と記されていた。

オッサン達は盛りあがり、都合よく空から降ってきた不自然さにはまったく気にもとめず、紙に遺訓を書きちらした。
そして、盛りあがったあまり地酒を飲みすぎて、朝までゲロを吐く始末であったようである…。


その頃、伊豆の洞窟で惰眠していた、品のない音に敏感に反応する特異体質の行者は、その胆汁が混じる音に目覚め、八重根浜をのぞいてみた。
そして八人が酔っぱらって投げ出していた、子孫に残した八枚の遺訓書を手に取ると、その末尾に、そ〜っと…、

(世が乱れる兆しが見えた時、わが子孫のもとに荘厳な雰囲気をまとった天からの使い、行者・役小角という者が現われ、そなた達を助けるであろう…)
と書き加えた。

行者は、ゴーゴーと鼾をかいて爆睡している八人のふところに遺訓書を差しこんで、それぞれの往生がせまる時点に連れ帰った。

その後、
江戸のとある店の蔵のなかに異空間隠遁(ひきこもり)の術を使い勝手に部屋をこしらえると、孔雀明王経(くじゃくみょうおうきょう)を唱え在所者上京(おのぼりさん)の術で、遺訓書の動きを確かめ始めた。

北は奥州、南は琉球までの範囲にその生を受け遺訓書を授けられた八人の英雄の子孫は、江戸に集まるには八十年近くの時が必要であることがわかった。

そこで八十年の時を超えて江戸の各町に暮らす八人の英雄の子孫に、この蔵の周りに集まるようにとの夢枕囁き(マインドコントロール)の術をかけ終えた。

その後ニンマリとした行者は、また惰眠をむさぼっていた…。


そして今、八人の英雄の談合後八十数年経って、弥勒菩薩からたたき起こされた、ということになる。


「クソッ、ばれないと思ったのに…」
行者は永い眠りからさまされた。と同時に、
「ブッ!」
とやってしまった。

顔をしかめた弥勒菩薩は、行者に一撃をあびせようと力んだ。その瞬間、
「ブブッ!」
と倍返しでやってしまった。頬を染めた弥勒菩薩はそそくさと姿を消した。
が、その木の実のような眼で熱きまなざし(アイコンタクト)をすることだけは忘れなかった。

(わかってるな、そろそろ働け!)
と弥勒菩薩の眼は言っていた。

行者は、いまどこに寝ていたのかを思い出すためにしばらく腕を組んでいた。
そして、いまは元禄八年(一六九五年)、徳川綱吉の治世下であり、江戸日本橋の蔵の中に目をさましたことを、やっと思い出した。

が、とにかく自分のと、弥勒菩薩との強烈な臭いに耐えかね、異空間に作った部屋から脱出することにした。
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posted by ぷんぷん at 18:56| Comment(2) | りふじん堂・桃太郎奇譚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする