四十九日の法要は菩提寺の住職が父をよく知る人で、説法も父の人なりや生前の私たちの知らないいろいろな話をしてくれて、とても心のこもったもので、住職に感謝しました。
また父方、母方の親戚も数は少なかったのですが、懐かしい叔父や叔母なども参列してくれてやはり故郷でやってよかったと感じた次第です。
というのも、実は住職の次男が横浜の寺に婿入りしていて、お通夜も葬式も上げてもらい、一時は墓をこちらに移してしまおうかと考えていたのです。
思えば私たち転勤族だけでなく、今では核家族化が進み、また親戚縁者も全国に散らばっている人がたくさんいる時代になりました。
最近では葬式だけでなく結婚式も家族だけ、場合によっては本人たちごく限られた人たちで済ますケースが増えていると聞きます。
そんな時代にあって、父の生まれ故郷に骨をうずめることができ、本人も喜んでくれたのではないかと思った次第です。
ところで父は長男だったのですが、養子となった人で、家は代々神道でした。一つ違いの弟の叔父も来年は90と高齢で、つい最近入院していたようなのですが、耳は遠くなりましたが、どこか私の父と所作が似ていて、なんとも言えない懐かしさを覚えました。
実は焼香のさい、一瞬 叔父もぼけたか?と思い、思わず、笑いかけたのですが、なんと神式の二拝二拍手一拝をやったのです。しかし住職は背を向けていましたし、拍手は音を立てずにやっていました。伯父としても気を使ったのはわかりました。
きっと叔父は叔父なりに自分の送り方で父を偲びあのような神式が自然とでたのか、それとも何か特別な想いや意図的があってのことなのか、後で確かめようとも思いましたが、止めました。
私の妹はカソリックで洗礼を受けています。また私の家内の実家は浄土宗ですし、私は信心の全くない浄土真宗です。
宗教について私は全く分かりません。が、故人を偲ぶやり方を人から強要される筋合いはないと考えています。
それぞれの宗教や宗派によっていろいろ決まりごとがあり、厳格な家では叔父のやり方はありえないのでしょうが、仏式の場で二拝二拍手一拝の姿には違和感は伴いましたが、なぜかとても静かに父を悼み、偲ぶ叔父の想いを感じることができ、暖かい気持ちになりました。


うるさい人は色々いうでしょうが、故人への礼を尽くした行為に自然体であれば。
小さい頃、親戚に天理教の教会を運営する人がいて浄土宗の念仏を唱えるか興味があり見ていたけど、わからなかった記憶がある。
みんな彼が天理教だとは知っていたはずだけど、誰かがそのことを話題にもしないし、彼も自己主張もしないけど、真面目に弔問していることは皆認めて、おおらかさがあったと思う。
信仰の自由などと声高に叫ばずとも、故人へのそれぞれの真摯な態度で別れに臨席するということで、良いではないか。
大事なのは、形ではなく、心なのだから。
冬至魚さん
コメントありがとうございます。
久しぶりの故郷、九州の片田舎にも多くの外国人、特に中国や台湾の人たちが一杯でびっくりしました。
人の営みや暮らし方も変わるもののと変わらぬものがあるのは当たり前ですが、何かしら時代の勢いについていけないように感じました。
やはり年を取ったのだなと。。。
>
>お葬式での二拝二拍手一拝による叔父さんのこと、いいじゃないですか。
>うるさい人は色々いうでしょうが、故人への礼を尽くした行為に自然体であれば。
>
>小さい頃、親戚に天理教の教会を運営する人がいて浄土宗の念仏を唱えるか興味があり見ていたけど、わからなかった記憶がある。
>みんな彼が天理教だとは知っていたはずだけど、誰かがそのことを話題にもしないし、彼も自己主張もしないけど、真面目に弔問していることは皆認めて、おおらかさがあったと思う。
>信仰の自由などと声高に叫ばずとも、故人へのそれぞれの真摯な態度で別れに臨席するということで、良いではないか。
>大事なのは、形ではなく、心なのだから。