ある夜、吉保の屋敷の座敷の庭先に、黒鍬頭(くろくわがしら)の小屋狂兵衛(こやきょうべえ)がうずくまる姿があった。
黒鍬衆は、本来若年寄が支配する組織であり、城中の力仕事などの雑用をこなす、最下級の御家人身分の者たちである。が、綱吉の愛妾(あいしょう)お伝(でん)が黒鍬衆の娘であったために鼻息が荒くなり、この頃では一目おかれる集団となっている。
狂兵衛はお伝の腹違いの弟で、吉保は綱吉の許しを得て黒鍬衆の中から、特に俊敏でかつ凶暴な者を選び出させ、私的に使っている。
そして、城中はもちろん、江戸市中の動きをさぐらせていた…。
「月のご報告にまいりました。
御政道に批判的な仕世堂と申す読売屋と、貝穀屋なる料理屋の二つの店に関して、気になることがございます」
「申せ」
「五月の一連の事件が起こって例の宝船が現われるまで、仕世堂なる読売屋主人の善八なる者を除いて、店の者が不在であった気配があります。
宝船と前後して皆が江戸にもどってきたことや、連続して二つの店から気になる品々が売りだされたことなどを考えあわせますと…」
「その品とはなんじゃ」
「仕世堂から、『桃太郎奇談』なるお伽草紙がただ同然で売り出され、その内容がちと気になりますのでお持ちしました。あとでご一読たまわりますよう」
と、一冊の本を差し出した。
「貝穀屋という、薬種もあつかう薬膳料理屋から『李夫人』なる高級香と『珠光人参』なる朝鮮人参を、破格の安値で売り出し始めました。庶民には無料で配っているそうです。いずれも長崎口の輸入品でございます。
さらに気になるのは、善八の店の奥の蔵にしばらく背の高い男が暮らしていたそうです。どうも異人のような雰囲気がございましたそうな。
南町の能勢様に連れられて筆頭ご老中様の下屋敷をおとずれた、と言う噂もあります」
吉保は腕を組んで考えた。そして続けた。
「ところで、先ごろ宝船が持ち帰った小判の使い道の件で、読売屋から御政道を批判するかのような記事が出されたとか」
「いつも先頭きって御政道に口をはさむ仕世堂が、この記事についてのみは鳴りを潜めているのが不審でありますが。この件についてはこれ以上はなんとも…」
「うむ、わかった」
狂兵衛はしずかに消えた。
吉保は部屋に入り、冊子を一読すると投げすてた。
「なんじゃこの内容は、公儀を愚弄しておる。そのうえ南蛮人と清国人がからんでおるような、もしそうならゆゆしきことじゃ…」
吉保は腕を組んで考えこんでいたが、やおら無気味な笑いを浮かべ、
「使えるやもしれぬな…、一連のことに筆頭老中と能勢の影がちらついておる」
吉保が手をたたくと、用人が現われた…。
「こいつは面白い」
役所から帰宅した北町奉行川口宗恒(むねつね)は、煎餅をかじりながら桃太郎奇談を読んでいた。
そこに使いがきた。
「川口殿は町奉行であられるゆえ、町衆の事情にも精通しておられような。近頃はやりの桃太郎奇談なるお伽草子と、李夫人なる香木、珠光人参なる高貴薬のことはご存知かな」
「もちろんでございます。お伽草紙は一読しました。なかなかに笑えまするぞ。今一度読み返しておるところです。
ご興味があれば明日にもご老中にお届いたします。ただ、李夫人香、珠光人参は話のみしか知りませぬ」
と、にこやかに答えた。
吉保は一喝した。
「たわけ!その方にはこの物語は、ご公儀を嘲笑する内容であると見ぬけぬか!」
それでは登場人物は…、
(話の『北さま』は俺?『南さま』はあのくそいましい能勢頼相?そして、どうしようもなくアホな殿さまは…、とても口には出せない…)
「申し訳ありませぬ。すぐにしらべます」
「その方は先年まで長崎奉行をつとめておったな。最近の長崎での異国物の取引状況もしらべてわしにしらせよ」
数日後、宗恒は報告した。
「二つの店の善八を除く者どもは出張と称し、機を一にして長崎に向かっておりました」
「うむ。して皆の手形はどのようになっておる。江戸を離れておった期間は」
「すべての者の道中手形は能勢殿の名で発行されておりました。そして皆が宝船が現われるまで、江戸を留守にしておりました。
長崎では、三ヶ月ほど前に、多くの香木と朝鮮人参が取引された痕跡があるようです。それと、長崎の両替屋から莫大な額の為替が小口に分けて江戸に送られたとの噂がありますが、これもしかとした証拠は残っておりませぬ。
ところで、五月に長崎から得体の知れない唐船が出港したそうです。何者が乗っていたかを明らかにする痕跡は残されておりませぬ」
「うむ、苦労をかけたの。このたびのその方の働きはわすれぬ」
との言葉を頭上で受けた宗恒は、ホッとして帰っていった。
「狂兵衛、聞いておったか」
と、声をかけると、庭奥の闇から小屋狂兵衛の姿がにじみ出た。
「はっ」
「しかし、何もこれといった証拠は残っておらぬようじゃ。
このうえは狂兵衛、二つの店を見張れ。このたびの宝船が持ち帰った物とは比べものにならぬ小判が、二つの店のどこかにあるはずじゃ。行け」
「はっ」
狂兵衛の姿が消えると、吉保は強くつぶやいた。
「大枚の小判を見つけ出して抜け荷と鎖国やぶりの証拠となし、それを仕組んだ者として、筆頭老中と能勢に腹を詰めさせてやる。
このたびのことに関わった町人は根だやしにせねば御政道が立ちゆかぬ。町人の分際でこざかしい者たちじゃ」
そのつぶやきを、中の蔵の第三の部屋で行者と善八が聞いていた。
善八はしばらくぶりに頼相の屋敷をたずねた。
「うむ、何か打開策を考えねば、その方たちが持ち帰ったお宝をまたもまったくな浪費にまわされるおそれがある。不甲斐ないわしを許せ」
「お奉行様、柳沢様にとって弱みになるようなことや、噂などはございませぬか。なんとか反撃に出たいと思います。何とぞお知恵をおかし頂きますよう」
と、正面から頼相の顔をうかがった。
「うむ…、他聞をはばかる故、その方のみにしておいてもらいたいが、先ごろお上が、ご寵愛あつい柳沢様にご自分の側室であられる染子様をおさげわたしになったのじゃが、染子様は今でもお上のご寝所にも呼ばれているとのことじゃ。
そして柳沢様は、あろうことか染子様をとおして、お犬小屋経費を上納することをかたに、甲斐に百万石ともいわれる領地拝領を願われ、お上も了承されたという噂が城中で密かにささやかれている。
お上のご寝所の乱れについては、このさい目をつむるとしても、理に合わぬ藩地(はんち)のやりとりは政の乱れの大もとである。水戸のご隠居光圀様は、この噂をお聞きになるや顔を真っ赤にして『柳沢に切腹を申し付け、お上の目を覚まさねばならぬ』と息まいておられるとのことじゃ」
「いまのお話を裏付けるような物はございますか」
「噂では、お上の花押(かおう)(サイン)が記された覚書が、染子様にわたされたとのことじゃ」
「まことにためになるお話、ありがとうございます」
と、善八は深々と頭をさげて能勢邸を辞した。
夕闇がただよい始めた頃、駒込にある、近頃柳沢吉保が造営した六義園の裏門にたたずむ善八の姿があった。
ややあって、一人の姿がにじみ出てきた。
「一番立派な奥座敷の文箱に、こんな物があった」
うす明かりでその文を一読すると、善八は不敵な笑みをうかべた。
「ありがとうございます、行者様。どうやら最強の武器を手にすることができたようです」
続く


